普段、私たちが食べているお米はいつごろ、どこから伝わってきたのでしょうか。お米のルーツとはいったいどうなっているのでしょうか?稲の栽培はいつ、どこで始まったのかについてはいくつか諸説があります。ここではお米の歴史について知りたいという方に向けて諸説をふまえながら紹介していきます。
お米のルーツはどこ?
普段、食べているお米はどこからきたのでしょうか。日本で3000年以上にわたって食べ続けているお米は「アジアイネ」のうち「ジャポニカ米」です。日本人が主食としているジャポニカの原産地についてはいくつか諸説があります。ジャポニカ種の祖先となるアジアイネの原産地はいったいどこからきたのでしょうか。
1970年代に有力だった「アッサムー雲南説」
1970年代に有力な説として主流だったのがインド東部のアッサムからミャンマー、ラオス、タイ北部、中国の雲南省の山間地帯がジャポニカやインディカの起源として同じ祖先をもつとされてた「アッサムー雲南説」です。
当時の研究で行われていたのは、古代のレンガから採取した籾殻を「時代」「地域」「品種別」として分類をして、品種の流れをたどりお米の起源とされる原産地を推察する方法を行っていました。
ジャポニカ米の起源は「長江中・下流域説」が定説
1970年代に主流だった「アッサムー雲南省説」ですが、研究や発掘調査などが進むにつれて「長江中・下流域説」が有力とされていきました。6000〜7000年前とされる稲作遺跡が長江中・下流域で発見されはじめたからです。
長江流域の遺跡(河姆渡遺跡)で出土したお米を調べてみたとき、栽培種に野生種が混じっているのがわかったからです。栽培種、野生種のどちらもジャポニカの遺伝子であるというのも明らかになりました。
同じ遺跡の中から同じ年代の栽培種と野生種が一緒に発見されたため、稲作発祥の地と考えられています。よってジャポニカ米の起源については長江中・下流域が起源といわれています。
ゲノム解析による新たな学説「珠江中流域説」
近年になり新たな学説として日本と中国の共同研究チームで最新のゲノム解析を行い「珠江中流説」が発表されました。研究によって珠江中流域に生息していた野生種からイネの籾が穂から落ちにくい、倒れにくいなど環境にも対応して栽培にも適したジャポニカ系統の栽培種になったと考えられています。
また、野生種の集団がさらにさまざまな経緯によってインディカ系統になってアジアの多くの地域に広がっていったと研究チームによって結論づけられました。
お米を食べるようになったのはいつから?
日本の水田稲作がはじまり、確立されたのはいつからなのでしょうか。日本で水田稲作がいつから始まったのかはいまだに特定には至ってはいません。長年の発掘調査によってさまざまな考察がされています。
ここでは大陸から伝わったお米がどのように日本で広まっていったのか、いつからお米が食べられるようになったのかについて紹介をしていきます。
日本に伝わったのは縄文時代
中国大陸で始まった稲作はその後どのように日本に伝わってきたのでしょうか。日本に稲作が伝わったのは縄文時代からです。稲作が伝わったルートについてはいくつか説があります。
- 長江下流から朝鮮半島、対馬、壱岐を経由して九州に伝わったという説
- 長江下流から直接、九州の北西部に到達したという説
- 中国南部から台湾、沖縄を経由して九州南部に伝わったという説
以上の3つの説があります。なかでも有力なのが①の中国の江南地方から山東半島や遼東半島を経由して朝鮮半島に到着し、対馬・壱岐を通り九州北部にたどりついたという説です。
日本へのルートは①の長江下流から朝鮮半島を経由して
九州北部に伝わったという説が有力みたい
石包丁とは半月形や長方形をしたイネの穂を刈り取るために
利用していた農具なのです
まだ特定する根拠が確定されているわけではない
しかし、特定する根拠が確定されているわけではないため、正しいルートはいまでも確立されていません。
日本に稲作が広まった様子は各地で発掘された水田跡や農具などからわかっています。日本では九州から日本列島を北上しながら全国各地に広がっていきました。縄文時代の終わりごろから弥生時代にかけて全国の各地で稲作がおこなわれはじめました。
縄文時代から飛鳥時代
1万年以上も前の縄文時代には栗やどんぐり、オニグルミなどの木の実が食べられるようになり、次第に栗やヤマイモが栽培されはじめました。4000~5000年前の縄文中期になると農耕が行われていたといわれています。
温帯型ジャポニカ種の稲と稲作をするための技術も日本に伝わりました。日本では20以上の水田跡がこれまでの発掘されています。今までに見つかった水田跡で一番古いものが佐賀県の菜畑遺跡です。縄文時代から弥生時代にかけて長く稲作がおこなわれていたと考えられています。
お米についてのできごとを年表で紹介
ここまではお米がどこからどのように伝わってきたのかについて紹介をしてきました。ここでは、日本でお米が栽培されてからのできごとについて年表でまとめてみました。おもに、お米が日本でどのように広がり、どんな扱いがされてきたのかについてまとめましたので参考にしてみてください。
時代 | 西暦・年度(年号) | お米についてのおもな出来事 |
縄文 ~ 弥生時代 | 紀元前 5000年頃 | 温帯型ジャポニカ種の稲と稲作の栽培が日本に伝わる 中国大陸から伝わってきた水稲農耕で石包丁、木製の杵・すき・くわなどが農作に使われはじめる |
飛鳥時代 | 646(大化2)年 701(大宝元)年 | 「班田収授の法」が発表される 口分田が与えられ、もみ米を税(租)として納めるようになる 大宝律令が完成する 「班田収授の法」が本格的に行われはじめる |
奈良時代 ~ 平安時代 | 743(天平15年 | 「墾田永年私財法」により開墾した墾田を永久に個人が私有してもいいことになる (結果、土地の国有化が崩れて荘園が広まる) |
鎌倉時代 | 二毛作がはじまる | |
室町時代 | 排水・施肥技術が進んだことにより田畑の二毛作が広がる | |
安土桃山時代 | 1582(天正10)年 | 太閤検地がはじまる(~1598年) 豊臣秀吉が全国の土地や収穫量、年貢などの厳しい土地測量が行なわれ、武士による支配がはじまることで荘園制が事実上なくなり、石高制に移行される |
江戸時代 | 1643(寛永20)年 1669年 1673(延宝元)年 1833(天保4)年 | 田畑の売買が禁止となる「田畑永代売買の禁分」が制定される 新田の開発 江戸幕府や藩によって開墾が進められ、新田を増やし米の収穫量をあげるようにつとめた ますの統一 江戸幕府は1升枡の容積の規格を1.804ℓに統一する この頃から農機具が飛躍的に発達しはじめる 「備中ぐわ」「千歯こぎ」「千石どおし」「ふみ車」などが開発され普及する イネの品種改良も進み、お米の生産量が増える 天保の大飢饉がおこる 天候不良や諸藩の税の取り立てが厳しいなどの理由により、多くの人が飢えに苦しんだ |
明治時代 | 1872(明治5)年 1873(明治6)年 1877(明治10)年 | 「田畑永代売買の禁令」が廃止される 「地租改正」により税を年貢米から地価の3%の地租になる(農民への負担が増したため、農民一揆が度々おこる) コシヒカリやササニシキの品種のもとになる「亀の尾」ができる 地租が2.5%に引き下げられる |
大正時代 | ~1918(大正7)年 | 足ぶみ脱穀機が普及しはじめる 米の値段が異常に値上がりしたため全国で米騒動がおこる |
昭和時代 | 1942(昭和17)年 1961(昭和36)年 1967(昭和42)年 1969(昭和44)年 1982(昭和57)年 | 「食糧管理法」が制定される 「農業基本法」が公布される(~1999年) 田植え機が各地で使われはじめる 「減反政策」がはじまる 「自主流通米」制度がはじまる 「改正食糧管理法」が制定される |
平成時代 | 1994(平成6)年 2001(平成13)年 2004(平成16)年 | 「食糧法」が制定され、翌1995(平成7)年に実施される JAS法にもとづき、新しい米の品種表示制度がはじまる(消費者は米の表示がわかりやすくなる) 新食糧法(改正食糧法)が実施される (農家でなくても自由に米の販売が可能となり、米の流通がほぼ自由化となる |
お米の起源には諸説ある
ここまではお米の起源について解説してきました。お米を主食としている日本にとって私たちの食べているお米の文化を知るのも知っておきたい知識のひとつです。お米の起源については諸説あり、いまも研究開発がされているテーマです。ただ、どの説も中国南部が稲作の起源という点では共通しています。「お米はどこからきたの?」「お米の起源は?」などお米の歴史に興味がある方は参考にしてみてください。
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